日本橋 丸直商店の店主ブログ

小舟町 天王祭

小舟町 天王祭

以前のブログでも紹介したが、9月12日(木)〜15日(日)まで、ご近所町会の小舟町にて八雲神社天王祭が開催されている。江戸の守り神とされた神田明神の境内にある3つの神社が1616年に幕府の手から町の名主に任されるようになって始まり、小舟町の天王祭は340年前に小伝馬町から小舟町に引継ぎ現在に至っているそうだ。本来は4年に一度の祭禮であるが、今年はコロナの影響もあり6年ぶりの祭禮になる。神田祭・山王祭と並ぶ「江戸三大祭」のひとつと言われているが、今年は日本橋の上から担ぎ上げるということで、楽しみで仕方ない。いよいよ明日、神輿馬鹿の本領発揮です。笑

小舟町 天王祭

以前のブログでも紹介したが、9月12日(木)〜15日(日)まで、ご近所町会の小舟町にて八雲神社天王祭が開催されている。江戸の守り神とされた神田明神の境内にある3つの神社が1616年に幕府の手から町の名主に任されるようになって始まり、小舟町の天王祭は340年前に小伝馬町から小舟町に引継ぎ現在に至っているそうだ。本来は4年に一度の祭禮であるが、今年はコロナの影響もあり6年ぶりの祭禮になる。神田祭・山王祭と並ぶ「江戸三大祭」のひとつと言われているが、今年は日本橋の上から担ぎ上げるということで、楽しみで仕方ない。いよいよ明日、神輿馬鹿の本領発揮です。笑

隅田川散歩道・浅草御蔵

隅田川散歩道・浅草御蔵

いつもの散歩道、隅田川沿いの浅草まで歴史探索をしてきました。最近流行りの米不足、新米が出始めているので心配はなさそうだが、その米にちなんだ探索でした。隣町の蔵前の由来など、勉強になりました。以下、浅草御蔵跡碑文引用です。 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下に置かれた。元和六年(1620年)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、必田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、(1716〜36年)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。

隅田川散歩道・浅草御蔵

いつもの散歩道、隅田川沿いの浅草まで歴史探索をしてきました。最近流行りの米不足、新米が出始めているので心配はなさそうだが、その米にちなんだ探索でした。隣町の蔵前の由来など、勉強になりました。以下、浅草御蔵跡碑文引用です。 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下に置かれた。元和六年(1620年)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、必田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、(1716〜36年)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。

オリジナル商品「極短」の反響に驚いた

オリジナル商品「極短」の反響に驚いた

先週末に兼ねてから進めていた丈の短い地下足袋、その名も「極短」を数量限定であるがInstagramで告知を行った。 何件か問い合わせが入ればいいなぁ。。。と思いながら投稿したわけだが、数分後にはInstagramのDM着信音が鳴り始め、DMの内容を見てみると「探していた」「気になる」「カッコイイ」などなど、思っていた以上の反響をいただいた。 この場を借りてお客様に御礼を申し上げます。 そもそも、店主自身がお神輿好きで粋にこだわってこの商売を始めたわけだが、夏場の神輿はかなりの暑さで、暑さ対策でこはぜ4枚の地下足袋の上部分を折り返して履いていた。 感覚的には、ズボンのチャックを開けたまま歩く様な気分で、どうもしっくりこない、粋なスタイルにこだわっておきながら、足元がイマイチ決まらない。色々考えた結果、初めから短ければ折り返す必要もないし、バシッと決まる。 そこで短い地下足袋を色々探したが、こはぜ4枚までが最短で、3枚2枚が売っていない。この商売を始めて作ってしまえばいいと思い、試しに作ってみた。 問い合わせの多さから、店主と同じ様に思っている人は多いようです。引き続き、こだわりのある粋な装束を開発していきます。次回はオリジナルの股引を開発します。皆様絶対に気にいるはず、お楽しみにして下さい。

オリジナル商品「極短」の反響に驚いた

先週末に兼ねてから進めていた丈の短い地下足袋、その名も「極短」を数量限定であるがInstagramで告知を行った。 何件か問い合わせが入ればいいなぁ。。。と思いながら投稿したわけだが、数分後にはInstagramのDM着信音が鳴り始め、DMの内容を見てみると「探していた」「気になる」「カッコイイ」などなど、思っていた以上の反響をいただいた。 この場を借りてお客様に御礼を申し上げます。 そもそも、店主自身がお神輿好きで粋にこだわってこの商売を始めたわけだが、夏場の神輿はかなりの暑さで、暑さ対策でこはぜ4枚の地下足袋の上部分を折り返して履いていた。 感覚的には、ズボンのチャックを開けたまま歩く様な気分で、どうもしっくりこない、粋なスタイルにこだわっておきながら、足元がイマイチ決まらない。色々考えた結果、初めから短ければ折り返す必要もないし、バシッと決まる。 そこで短い地下足袋を色々探したが、こはぜ4枚までが最短で、3枚2枚が売っていない。この商売を始めて作ってしまえばいいと思い、試しに作ってみた。 問い合わせの多さから、店主と同じ様に思っている人は多いようです。引き続き、こだわりのある粋な装束を開発していきます。次回はオリジナルの股引を開発します。皆様絶対に気にいるはず、お楽しみにして下さい。

中央区大江戸まつり盆おどり大会

中央区大江戸まつり盆おどり大会

こんにちは、店主です。 先週の金曜土曜と中央区の浜町グランドで、中央区大江戸まつり盆おどり大会が行われました。 盆踊りは踊れないので、ひたすらもつ煮を作っていました。皆さん楽しそうに踊られていて、浴衣姿の方が沢山いらっしゃいましたね。祭り装束ではないですが、それもまた粋ですね。浜町グランドの中央には3階建てのやぐらが組まれており、2階部分には100人が登れるそうです。今回が34回目となりますが、昨年は73,000人のお客様が来場され、今年はかなり多かったので80,000人超えたんじゃないですかね??毎年もつ煮を作っているので、他のブースには行ったことがないですが、浴衣を着て楽しんでみたいですね。

中央区大江戸まつり盆おどり大会

こんにちは、店主です。 先週の金曜土曜と中央区の浜町グランドで、中央区大江戸まつり盆おどり大会が行われました。 盆踊りは踊れないので、ひたすらもつ煮を作っていました。皆さん楽しそうに踊られていて、浴衣姿の方が沢山いらっしゃいましたね。祭り装束ではないですが、それもまた粋ですね。浜町グランドの中央には3階建てのやぐらが組まれており、2階部分には100人が登れるそうです。今回が34回目となりますが、昨年は73,000人のお客様が来場され、今年はかなり多かったので80,000人超えたんじゃないですかね??毎年もつ煮を作っているので、他のブースには行ったことがないですが、浴衣を着て楽しんでみたいですね。

深川神明宮例大祭

深川神明宮例大祭

先週は、深川新明宮のお祭りに遊びに行きました。炎天下の中、皆さんお水を掛けられ、本当に気持ちよさそうでした。💦 そもそも、深川とは、徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)、家康公が当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼びよせ、地名を尋ねました。「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました。 深川の地名の発祥は、神明さまの鎮座する実にこの地なのです。以来、深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となり、深川氏は開拓の功績により代々深川二十七ヶ町の名主を務めました。深川氏は宝暦七年(1757)に七代で断絶しますが、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に今も墓所が残っています。 でもって、深川新明宮の由来は、今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられる)が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。八郎右衛門は神さまを敬う心が篤く、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りし、開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念しました。 これが、深川神明宮の起源です。そして深川の地の発展とともに、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と称せられ、多くの崇敬を集めるようになり、今日に至りました。・・・だそうです。 ※深川新明宮HPより 江戸の下町、深川を作ったのは深川八郎左衛門さん勉強になりました。

深川神明宮例大祭

先週は、深川新明宮のお祭りに遊びに行きました。炎天下の中、皆さんお水を掛けられ、本当に気持ちよさそうでした。💦 そもそも、深川とは、徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)、家康公が当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼びよせ、地名を尋ねました。「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました。 深川の地名の発祥は、神明さまの鎮座する実にこの地なのです。以来、深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となり、深川氏は開拓の功績により代々深川二十七ヶ町の名主を務めました。深川氏は宝暦七年(1757)に七代で断絶しますが、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に今も墓所が残っています。 でもって、深川新明宮の由来は、今からおよそ四百年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられる)が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。八郎右衛門は神さまを敬う心が篤く、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りし、開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念しました。 これが、深川神明宮の起源です。そして深川の地の発展とともに、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と称せられ、多くの崇敬を集めるようになり、今日に至りました。・・・だそうです。 ※深川新明宮HPより 江戸の下町、深川を作ったのは深川八郎左衛門さん勉強になりました。

亀戸香取神社 神幸大祭

亀戸香取神社 神幸大祭

先日、亀戸香取神社の神幸大祭にお邪魔してきました。(見学睦www) 神幸大祭は、毎年8月に斎行される例祭ですが、本年は8年振りとなる神幸大祭だそうです。 9日 各町神酒所祓 宵宮祭10日 本殿祭(午前11時斎行)11日 本社神輿渡御神社御神輿はこんにゃく神輿と呼ばれ、屋根・胴・台座がそれぞれ独立して動きます。8年振りに担がれるこんにゃく神輿!!かなり見応えがありました。途中、亀戸餃子も食べ、お神輿仲間にも会えて楽しい休日でした。Instagramに渡御の様子を載せてますので、ご覧ください。https://www.instagram.com/reel/C-jdgIQvzOK/?utm_source=ig_web_copy_link&igsh=MzRlODBiNWFlZA==

亀戸香取神社 神幸大祭

先日、亀戸香取神社の神幸大祭にお邪魔してきました。(見学睦www) 神幸大祭は、毎年8月に斎行される例祭ですが、本年は8年振りとなる神幸大祭だそうです。 9日 各町神酒所祓 宵宮祭10日 本殿祭(午前11時斎行)11日 本社神輿渡御神社御神輿はこんにゃく神輿と呼ばれ、屋根・胴・台座がそれぞれ独立して動きます。8年振りに担がれるこんにゃく神輿!!かなり見応えがありました。途中、亀戸餃子も食べ、お神輿仲間にも会えて楽しい休日でした。Instagramに渡御の様子を載せてますので、ご覧ください。https://www.instagram.com/reel/C-jdgIQvzOK/?utm_source=ig_web_copy_link&igsh=MzRlODBiNWFlZA==